デジタル・クワルナフ
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雨天で会社が休みになるという法律を作ってくれ
現在、外は雨。雷も鳴ってます。
そういや、昔、家電屋でバイトしてた友達から聞いた話で、雷が落ちた日には家電屋にたくさん、これ直してくれ、ってヤツらが来るらしい。PCだと一発でおしゃかだとも聞いたので、雷鳴るたんびにビビってます。一度、雷が落ちてもパソコンに影響ないようにする、という機械を買おうとおもいましたが、何がいいやらわからず断念。いや、そもそも、近くに雷落ちて停電、って事態は(専用機械があるほどに)そんなに起きるもんなのか・・・

それはともかく。
今日は午前から雨だったのですが、私はけなげにも自転車で通勤ですよ。
雨足が強くて、ズボンは本気でびしょびしょ。傘さしても、布張りのタイプの安物なので、傘の繊維の隙間から、バンバン雨が通り抜けてくる! ・・・・・今度っからは、ビニ傘にしようと決意しました。

あ、ちょうど自転車にオイル注したばっかりだったんですが、雨で落ちたから、またやんなきゃなんないのか?


参照サイト
ヤフー天気情報
バイオウェザー・雨レーダ
佐藤秀明写真館
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by xwablog | 2007-07-30 23:25 | 日記
どうやらgoogleで普通にヒットするみたい
どうも、このブログの設定を「非公開」としておいても、まったく関係なく、googleでヒットしてしまうようですね。
「クワルナフ」で簡単に来れちゃう。非公開ってのはどういう制限なんだ?


と、こういうどうでもいいメモとかも記事にしてみる。
この類いのは、今後も増えそうですが、これをカテゴリで「日記」にするか、それとも新しく「メモ」というカテゴリを作るか、どうしよう。
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by xwablog | 2007-07-29 04:28 | 日記
やはり記事改造が簡単なのはいい。
先日、部屋の中に便所コオロギとも呼ばれる生き物が登場しまして、凄い驚いたんですが、速攻で処分させていただきました。てか、見える内にやっとかないと、書物の腐海の中に迷い込んだら最後、またみつけられる保証はまったくないですからね。てか、少し殺虫剤が本にかかったかも・・・
いったいどこから入ったのか。いや、もしかしたら小さい頃に入り込んで部屋の中で成長したのかもしれん。

それはともかく。
エキサイトブログだとJavascriptが使えないということで、さっそくアメブロへ移動してみたのですが、そしたらアメブロの方は、HTMLタグで編集できないという有様でして、撤退してきました。
サイトトップもさらに改造し、上下分割にしてみました。まあ、前のよりかはマシになったかと。

しかし、いくつか記事を入れてみましたが、やはり、blogというものは、記事の入力が簡単なのと、一度入れた記事に手を入れるのがまた簡単なのがいいですね。各記事を開くのも簡単だし、検索も出来る。GoLiveとかよか反応速いし。
そもそも、自分のHPは記事がほとんどなんだから、こういう感じの方が合ってるんじゃないかと。

今のところ、用語辞典の方はこれでいけそうです。あと日記も。
問題は系図やら、歴史やらの表示をどうするかだな・・・・
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コメント禁止にしたので、この記事に対してのコメントを移動しておく。
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Commented by xwablog at 2007-07-28 20:27 x
ちょと問題があったな。カテゴリをどうするか。「用語辞典」でひとつにまとめるべきか、それとも「人名」「地理」「軍事」とか、別にするか。タグの入れ方も、それに合わせて変えないと。タグで「9世紀」とか、時代分類というのは、考えたけど、あまりよくないかもしれない。

javascriptで作ってある「今日は何の日」については、jsが使えるブログを見付けたら、そっちに移動して復活という手。
問題は、移動するとしても、今までここで書いてしまった記事はまたやり直しってことか・・・・。このエキサイトブログって、記事をまとめてPDF出力してくれるんですけど、それをどうイジレルかで変わってくるかもな。
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by xwablog | 2007-07-28 20:22 | 日記
イーゴリ1世(イーゴリ・リューリコヴィチ)_クワルナフ用語辞典
イーゴリ1世(イーゴリ・リューリコヴィチ。Igor. Ryurikovich。イーゴリ公。02のイーゴリ。イゴリ)

キエフ大公。位913(912)年〜945年。877年生。ノヴゴロド公リューリクの息子(ただし、リューリクの子にしては歳が離れすぎているため、実際の子か疑問はあります)。父親のリューリクは879年に死亡。親族のオレーグがリューリクからイーゴリの後見を頼まれたため、成年した後も国の実権を握ったのはオレーグでした。イーゴリはリューリクの直系として尊重されてはいたものの、国を支配した公はオレーグであったようです。また、年代記でもオレーグの時代はイーゴリではなくオレーグが公として扱われているので、イーゴリがキエフ大公となったのはオレーグが死亡した後としました。
882年にオレーグ率いる軍勢によってキエフ市が征されますが、この時イーゴリも押し立てられて一緒にやってきています。
「彼はキエフの山に到着した。オレグはアスコルドとヂルが公になっているのを見て船の中に軍勢を隠し、別の(軍勢)を後に残し、自分自身は幼いイゴリを抱いてやって来た。」(『ロシア原初年代記』P23より抜粋。)
その後成人してオレーグとともに行動していたイーゴリは、903年にオレーグがプスコフから連れてきたオリガを妻にしました。907年のコンスタンティノープル遠征には行かず、キエフ市にいました。912年の秋にオレーグが死亡すると、この国を指導するようになります。年代記には913年の項に「イゴリはオレグの後に公として治め始めた」とあるので、即位年は913年としました。
イーゴリが統治しはじめた時、強力な支配者であったオレーグがいなくなったために反乱が起きます。即位した913年に起きた反乱は、キエフ市から北西方向に行った場所にいたドレヴァリャーネ族のもので、翌914年にイーゴリは兵を率いてこれを鎮圧し、以前よりも重い税金を掛けました。またイーゴリの時代から、南ロシア平原にやってきたペチェネーグ族との関わりが多くなってきます。915年にはじめてペチェネーグ族が攻めてきたため、これと和平を結んだり、920年にはペチェネーグ族と戦ったりしました。
941年になると、イーゴリはオレーグが以前に行ったようなコンスタンティノープル遠征を行いました。しかし、この遠征はビザンツ帝国の所有する火炎放射機のような兵器「ギリシャ火」によって撃退され、失敗に終わりました。そのためイーゴリは再び遠征を企画し、944年に再度遠征を行いました。前回の失敗に懲りたのか、スカンジナヴィアから「ヴァリャーギ」たちを呼び、また支配下の部族であるポリャネ族、スロヴェネ族、クリヴィチ族、チヴェルツィ族から兵士を集め、さらにペチェネーグ族を雇い、より大きな軍勢で攻めました。
「イーゴリはヴァリャギ、ルシとポリャネ、スロヴェネとクリヴィチ、およびチヴェルツィとペチェネギ(を傭い)、多くの軍勢を集め、彼らから人質をとった。彼は自分の仇を討とうとして、船と馬でグレキに向かって出発した。」(『ロシア原初年代記』P49より抜粋)
しかし、今度は軍勢が多かったせいか、ビザンツ側が和平を求めてきたので、戦わずして戻り、和平条約を結びました。条約締結には相互に使者を送り合い交渉してから、945年に商行為と相互軍事援助を内容とする条約が結ばれました。この条約は911年にオレーグが結んだ条約よりも不利なものだったようです。
945年、従士団がより良き装備のためにさらなる財貨を求めたため、ドレヴァリャーネ族に普段よりも多く課税しました。当時は大公自らが各地を廻って徴税する「巡回徴貢」という方法が行われていました。この時、荒っぽく取り立てたためにドレヴァリャーネ族に恨まれました。イーゴリは一旦キエフに帰還しましたが、もう一度小さな部隊だけを率いてドレヴァリャーネ族に向かって徴税しようと行った時、怒ったドレヴァリャーネ族の住民によって殺されてしまったのです。これはイーゴリの有力な家臣で、ヴァリャーグ傭兵の隊長であるスヴェネリドとその部下の羽振りの良さを、イーゴリの従士団が見て、彼らがより良いものを欲してイーゴリにせがんだ為に行われた二度の徴税でした。ドレヴリャーネ族の人々は自分たちの公マルに相談し、抗議団を送りますが、彼はドレヴリャーネ族の中心都市イスコロステニ市から来た抗議団に耳をかさず、彼らに襲撃されて死亡したのでした。ドレヴリャーネ族の人々の恨みは凄まじく、彼の遺体は曲げた2本の木の頂に縛りつけられて、ふたつに引き裂かれたといいます。彼の死に対する復讐は妻のオリガが行います。
イーゴリの遺体はその地に埋葬され、『ロシア原初年代記』の書かれた時代にもそこに彼の墓があったといいます。
「イーゴリ1世」とは言わず、「イーゴリ公」などと書かれるのが普通です。息子はスヴャトスラフ1世。

(参考文献・『ロシア原初年代記』P17(各公たちの治世の年数)、22(幼かったため後見人をつけられた)23(キエフ市遠征)、29(妻オリガを娶る)、30(コンスタンティノープル遠征)、45(「第4章 イゴリの治世」ドレヴリャーネ族の反乱・討伐。ペチェネーグ族の初襲来・和平)、46(対ペチェネーグ戦)、48(コンスタンティノープル遠征)、49(スヴャトスラフ1世生誕・コンスタンティノープル遠征)、52(条文内に名前)、58(誓い)、59(使者の帰還)、60(ドレヴリャーネ族から徴税)、61(死亡)、(385に肖像画)、『世界歴史大系ロシア史1』P59〜、『岩波西洋人名辞典 増補版』P121、『ロシアを知る事典』P37、『キリスト教人名辞典』P125、『ビザンツ帝国史』P469、)
(05/03/13作成、05/06/11修正、)
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by xwablog | 2007-07-28 20:07 | 用語辞典
オレーグ(Oleg。ヴェシチー。)_クワルナフ用語辞典
オレーグ(Oleg。オレグ。ヴェシチー。ベシチー。予見者。物知れる者。霊験ある者。)

古代ロシアの有力者。キエフの大公。位882年〜912年。リューリクの息子イーゴリの後見人で、軍司令官。ノヴゴロド国の建国者であるリューリクと同じ一族でその部下でしたが、879年頃に臨終となったリューリクによって息子イーゴリの後見人になり、長く国の権力を握ることになります。
882年になると、支配下のヴァリャーグやチュヂ族、スロヴェネ族、メリャ族、ヴェシ族、クリヴィチ族とともに遠征に出ました。クリヴィチ族とともにスモレンスクを支配下に起き、自分の家臣を配置し、さらにリューベチも同様に家臣を置きました。そして、ドニエプル川をさらに南下してポリャネ族の中心都市であるキエフ市に至りました。キエフではリューリクの時代に、南へと出て自ら公位についていたアスコリドとヂルがいたため、軍勢を遠くに配置し、少数の兵士を船に隠して、自分たちは同じ氏族の商人だと称してアスコリドとジルらをおびき出し捕えて、イーゴリと引きあわせて彼らの公位の正当性を否定してから彼らを殺し、死体を山の上に運んで埋めました。こうしてキエフ市を首都とするキエフ公国がはじまることになります。彼の時代からロシアは「ルーシ」と呼ばれるようになります。
また、これまではロシア南部はハザール汗国の影響が強かったものの、これによってそうした影響は排除されていくようになったのです。
オレーグは大公としてキエフに住んでルーシを支配し、スロヴェネ族、クリヴェチ族、メリャ族に納税させました。ヴァリャーグに対しては、ノヴゴロドから300グリヴナを納めるよう定めました。この貢税は、ヤロスラフ1世が死ぬ1054年まで続いたといいます。
883年にドレヴァリャーネ族と戦い、支配下に組み入れて黒貂の皮1枚を税として納めるようにさせました。また同年にはホルヴァチ族を征服しています。884年にハザール汗国支配下のセヴェリャーネ族に遠征して勝利し、彼らの税を軽くして支配下に入れました。885年には同様にハザールの支配を受けていたラジミチ族に使者を送って、キエフの支配を受け入れさせます。このときの納税はハザール汗国と同じでした。オレーグがキエフ市にいた頃である898年に、マジャール族がウゴリスコエ山経由でキエフの近くを通過するという事件がありました。903年、成年になったイーゴリは、すでに自ら統治を行えるようにはなっていたものの、オレーグが実質的にその統治を代行しました。この年にイーゴリにオリガを娶らせました。
907年には、第2次コンスタンティノープル包囲とかオレーグ公のコンスタンティノープル遠征と呼ばれている遠征を行ないました(この遠征が実際にあったどうか不明な点もあります)。この遠征は、イーゴリをキエフに残して出発し、支配下の諸部族を連れて、騎兵と2000隻の船団でコンスタンティノープルに至りました。ビザンツ側は金角湾を封鎖して籠城したので、オレーグは上陸して戦いました。さらに陸揚げした船に車輪と帆をつけてそれで街へ進んだという話も『ロシア原初年代記』には描かれています。これを恐れたビザンツ側は和平を求め、オレーグは自分の兵士にそれぞれ12グリヴナを求め、オレーグは部下のカルル、ファルロフ、ヴェルムド、ルラフ、ステミドを使者として、レオン6世とアレクサンドロス3世の両共治帝と交渉させました。ビザンツと通商条約を結ぶことで、旅費や滞在費を負担してもらい、そのかわりに帝国内での暴挙の禁止や、コンスタンティノープルでの滞在のきまりを取り決めました。この条約の調印においては、双方は自分の信仰に基づいて誓約したことが『ロシア原初年代記』に記されています。911年に使者を送り、9月に条約を正式に批准しました。
912年の秋に、オレーグは馬の頭蓋骨を踏んだ時に出てきた蛇に咬まれ、それによって病気になって死亡しました。これは五年前に妖術師から「馬によって死ぬ」と予見され、すでに死亡していたその時の馬の死体を確認するために、うち捨てられていたその馬の骨を見にいって、まさに予見通りに死亡したのです。しかし、この話は似た話が北欧のフォークロアにあるので、伝説だと見たほうがいいかもしれません。
『ロシア原初年代記』によると、彼はシチェコヴィツァ山に埋葬されたとされますが、伝説では北方へと帰り、墓はラドガに造られたといいます。
彼の統治が行われていた時代である909年に、16艘のルーシ船団がカスピ海上のアベスグン島にやってきて、停泊していた商船団を壊滅させたらしいです。さらに、910年にはサーリ市(サリ市)を占領したようですが、これらに商船団の活動に関して、オレーグは関係あったのかどうかは不明です。
『ロシア原初年代記』におけるオレーグに関する記述は次の通りです。P12(黒いウグリがキエフ市近くを通過)、17(各公たちの治世の年数)、22(委任)、23(「3章・オレグの治世」)、29(イーゴリに妻を娶らせる)、30(コンスタンティノープル遠征)、40(条約締結後使者から報告を受ける)、41(愛馬の話)、42(死亡)、45(イーゴリの治世のはじまり)、336(注)、など。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P114、『ロシア・ソ連を知る事典』P95、『ハザール謎の帝国』P125、『岩波西洋人名辞典 増補版』P313、『世界歴史大系ロシア史1』P51〜、『ロシア原初年代記』P22〜、『角川世界史辞典』P168、)
(05/02/24作成、05/03/13修正、07/07/28追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 19:01 | 用語辞典
リューリク(リューリック)_クワルナフ用語辞典
リューリク(リューリック。リーリク。リュリク。Ryurik。01のリューリク)

ルーシの公(ノヴゴロド公)。位862〜882(879)年。
混乱する北ロシアの諸部族(チュヂ族やクリヴィチ族やスロヴェネ族など)によって迎えられたノルマン人の豪族。シネウスとトルヴォルという兄弟たちとともに来て、リューリクはノヴゴロドに、シネウスはベロオーゼロに、トルヴォルはイズボルスクに住みました。864年にシネウスとトルヴォルが相次いで死亡すると、ふたりの支配していた街に自分の家臣を送り込んで支配下に置きました。この時派遣した家臣はヴァリャーグたちでした。彼の統治下にあった街は、ノヴゴロド、ポロツク、ロストフ、ベロオーゼロ、ムーロム。家臣の中にキエフ公となるアスコリドとヂルがいました。
882年、彼は臨終の間際に公位を息子イーゴリに譲り、一族の有力者であるオレーグにその後見を頼んでおいてから死亡しました。なかば伝説の人物。
通し番号[01]

(参考文献・『岩波西洋人名辞典 増補版』P1659、『ロシア原初年代記』P19〜、『世界歴史大系ロシア史1』P39、『ロシア・ソ連を知る事典』P632、)
(05/02/16作成、)
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by xwablog | 2007-07-28 18:55 | 用語辞典
キエフ市(Kiev)_クワルナフ用語辞典
キエフ市(Kiev。キーエフ。キーエヴ。)

ウクライナ中北部の街。ドニエプル川中流右岸にあって、古代から交易拠点として栄えました。現在はウクライナ共和国の首都。モスクワの南西856キロメートル。人口263万人(1996年)。中世に建国された東スラヴ人を中心とした国家「キエフ公国」の中心的都市。ドニエプル川右岸にある小高い丘陵の上に作られ、ドニエプル水系の水上交通の要所であるとともに、北の森林地帯と南のステップ地帯の境目にある東西交易路の要所でもあります。
9世紀には東スラヴ人の部族連合ポリャーネ族の首邑として栄えていましたが、860年頃、リューリクの家臣であったと思われるヴァリャーグのアスコリドとジルがこの街を占領し、公として治めはじめました。それまで、もしくはアスコリドとジルの時代までは東の大国ハザール汗国に貢納していましたが、これ以降はその支配から脱したようです。
882年にはアスコリドとジルと同じく北ロシアから遠征してきたオレーグがこの街を征服し、以後南北ロシアを統一したキエフ公国の首都となります。このロシア・ウクライナ・ベラルーシに及んだ国家は、「ルーシ」とも呼ばれましたが、この街の名前を付けて「キエフ・ルーシ」とも呼ばれます。また、その後キエフ公国の発展の中心にあったこともあり、「ルーシの都市の母(ロシア諸都市の母)」と呼ばれています。
988年、ウラジーミル1世の治世にキリスト教が国教とされると、府主教座が設置され、キエフ公国のキリスト教文化の中心地として多くの教会が建設されるようになります。中でもヤロスラフ1世の時代に建設されたソフィア大聖堂は、長い間キエフ公国最大の教会でした。またキエフ公国最初の修道院、ペチェルスキー修道院もキエフ市の近くに建設されています。
11世紀までは繁栄を続け、1100年頃には人口が4万になるほどの大都市となっていましたが、分領制時代に入ると公一族の争いや交易の減少、騎馬民族ポロヴェツ族の度重なる侵入といった事が重なり、衰退がはじまりました。特に北東ルーシの発展とともに中心的役割を担うことはなくなりましたが、それでも最も権威ある街としての重要性は残っていました。
1169年にはウラジーミル=スーズダリ公のアンドレイ・ボゴリュプスキーは軍勢を派遣してキエフ市を占領させ、自らがキエフ大公位に即きます。これが実質的にはキエフ市の政治的終焉だと言う研究者もいるようですが、この時点ではまだキエフ市には占領し、キエフ大公になるだけの価値がある重要性が残っていたようです。12世紀末からはチェルニゴフ、スモレンスク、ガーリチ・ヴォルィニの諸公がキエフ大公位を巡って争い、ウラジーミル大公もそれに介入しています。
13世紀、モンゴル軍の遠征はこの地まで及び、1240年12月に包囲され、陥落・炎上し、街そのものがほとんど失われました。1246年にプラノ・カルピニがモンゴルまで行くための旅のはじめにこの街を通った時、この街には200戸ほどしか住民がいなかったと記録しています。
「そして、ロシアの首都キエフをかこみ、長期の包囲攻撃ののち、ここを占領して住民を殺戮しました。わたしどもが旅行の途中その土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数えきれぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。キエフは、以前は非常に大きく人口稠密な町だったのですが、いまでは、ほとんど無に帰してしまいました。こう申しますのは、今日では、そこの人家はせいぜい200戸あるかないかで、住民は全くの奴隷状態におちいっているからです。」(『中央アジア蒙古旅行記』P37「プラノーカルピンのジョン修道士の旅行記」より)
1300年にキエフ府主教座が、北東ルーシの街ウラジーミルへと移され、宗教的中心地としての役割も失い、14世紀になって隣国リトアニアが強大になると南西ルーシは次々と占領され、1320年にはリトアニア大公ゲディミンによってキエフ市も征服されました。
『ロシア原初年代記』にはキエフで渡し守をしていたキーに街の名前が由来すると書かれていますが、実際の名前の由来は不明。『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』P100にはハザール汗国の将軍クイ(クィ。クー)に由来すると断定的に書かれていますが、これは「キー」のことを言っているのだと思われます。
『ロシア原初年代記』によると、キエフ市の丘の北東側、ポチャイナ川と丘陵部の間にポドリエという下町がありました。

(参考文献・『コンサイス外国地名辞典』P241、『ロシアを知る事典』P161、『中央アジア蒙古旅行記』P37、『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』P100、『ロシア原初年代記』P61、578、)
(05/06/11作成、05/09/24追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 18:40 | 用語辞典
ノヴゴロド市(Novgorod。大ノヴゴロド。ヴェリキー・ノヴゴロド。)_クワルナフ用語辞典
ノヴゴロド市(Novgorod。大ノヴゴロド。ヴェリキー・ノヴゴロド。ノブゴロド市。)

現在のロシア北西部、ノヴゴロド州の州都。古くから栄える都市。イリメニ湖の北岸、ヴォルホフ川の川沿いに築かれた交易都市で、『ロシア原初年代記』においては9世紀から登場しますが、それ以前の5世紀後半から6世紀前半には集落があったようです。862年には北部ロシアで大きな勢力を持っていたスロヴェネ族やチュヂ族、クリヴィチ族などは、混乱した状況を収めてもらうために、スカンジナヴィア半島からノルマン系の豪族であるリューリク一族を招致しました。その時リューリクがその統治の拠点としたのが、ノヴゴロドでした。この街はその当時から、バルト海とロシア国内の河川交通路を結ぶ交通の要衝だったのです。バルト海からネヴァ川、ラドガ湖、ヴォルホフ川を伝ってノヴゴロドへと来ることが出来、ノヴゴロドから南へ向かえば、イリメニ湖、ロヴァチ川、西ドヴィナ川を通って、黒海まで流れるドニエプル川へと行くことが出来ます。また、東へと向かえばオカ川を下ってヴォルガ川まで行くことも出来ます。ドニエプル川とヴォルガ川という、ロシアで最も重要な2つの水系、そしてバルト海へとアクセスすることの出来る地点にあったのです。リューリクはこのノヴゴロドを拠点として、周辺の諸部族を従え、ノヴゴロド国を建国します。これがロシアにおけるはじめての国家でした。その後リューリクが死亡し、息子といわれるイーゴリの時代となると、イーゴリの後見人であったオレーグが領土を格段に増加させます。オレーグはイーゴリを押し立て南へと遠征し、ドニエプル川沿いのキエフ市を手に入れて国の中心をキエフ市へと移したのです。こうして巨大な領土を持つキエフ公国が誕生し、ノヴゴロドは国内第二の都市へとなります。しかし、キエフ大公は自らの後継者をこの街の統治者として派遣するなど、その重要性は10世紀〜12世紀を通して保持され、多いに発展しました。10世紀の大公ウラジーミル1世やその子ヤロスラフ1世は、このノヴゴロドの力を手にすることで大公へとなることができたほどです。
ノヴゴロドにおいては市民の力が強く、民会の発言権が大きかったので、その支持が欠かせませんでした。時代が下り、キエフ大公の支配力が弱まると、ノヴゴロドはこの民会を中心に市政を執り行うようになり、分領制時代になると独立した北部ロシア最大の国へと押し上げました。もっとも、市民とはいっても、徐々に市内の貴族層が市長官をはじめとする市政の重要な役職を担うようになり、政体も貴族共和制といったものになっていきます。この時代、ノヴゴロドはリューリク家から人を派遣してもらい、ノヴゴロド公として赴任してもらいましたが、これは勤務公と呼ばれる雇われ軍司令官でした。軍事の専門家は、外部から来てもらっていたのです。
13世紀にモンゴル軍がロシア全土を占領していった時も、ノヴゴロドは直接占領されることなく済みました。
14〜15世紀にはロシア北東部においてモスクワが勢力を拡大し、モスクワ大公がノヴゴロド公を兼ねるようになりますが、それでも市政はノヴゴロドの貴族たちが握っていました。市政を独占する数十の有力貴族が、都市内の五つの区に分かれて権力闘争を繰り返し、ノヴゴロド周辺とさらにははるか北方の広大な土地を支配したのです。
ノヴゴロドは広大な領土から毛皮や蜂蜜を主力輸出商品とし、莫大な富を築き繁栄しましたが、1471年にモスクワ大公イヴァン3世との戦いに敗北し、1478年には実質的に併合されてしまいました。その後も長く重要な経済都市として栄えはしましたが、18世紀にピョートル大帝がペテルブルクを建設すると、以後歴史の表舞台からは退いていきます。
街の中は現在でも数多くの教会が残り、石造りのクレムリンは巨大です。中でも、クレムリン内のソフィア聖堂や、イリイナ通りのスパス・プレオブラジェーニエ聖堂などは必見。
はじめて発見された白樺文書はノヴゴロドのかつてのドミートリー通りにあたるヴェリーカヤ通りの発掘現場から1951年に発掘されました。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P571、『世界歴史大系ロシア史1』P34〜、『コンサイス外国地名辞典』P726、『白樺の手紙を送りました ロシア中世都市の歴史と日常生活』と『ロシア中世都市の政治世界』は全て重要、)
(05/02/17作成、06/02/07追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 18:37 | 用語辞典
javascriptが使えないとかは困ります
どうも。馬頭です。
夜中の三時とかに帰ってきても、下の階の人がまだ起きてることが多いのですが、いったい何してるんでしょうね。人のこといえませんが。

ところで、こうやって新ブログを作成中なわけですが、問題があることに気がついたりしました。
どうやらこのエキサイトブログは、javascriptが使えないみたいです。
他にも制限が多くて自由度が非常に低いブログであることが発覚。
現在考えてる新しいHPのトップの案のためには、やはりブログの移動が必要かもしれんです。
せっかくいろいろ記事写してみたりしたのに・・・

で、次はどこにしようか迷いますが、fc2はやだな。前のブログでスパムがいっつもfc2だったせいで、非常に悪い印象が! あと、gooブログはやはりjavascriptが駄目だそうです。
あと、ぱっと思いつくとこといったら、アメブロかな〜。
こうしてみると、やはり実のところdionのラブログは意外によかったような気さえしてくる。
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by xwablog | 2007-07-27 04:23 | 日記
とりあえずの新規日記、体調は回復、すべきことは山盛り。
どうも。なんとか体調が戻って来た馬頭です。
病み上がりとはいえ、カレーの後にアイスという最良のコンボとは、さすがに自分を甘やかし過ぎだと思う今日このごろ。
今食べてる、ハーシーチョコチップミント、って凄くいい。

それはともかく。
この記事は新規記事です。日記だけど。
非公開状態で書いた日記。・・・イタタタ。

なんか、More機能で追記が出来るのがわかったのはいいのですが、検索とかの問題でいまいち使えなさそう。
となると、長文でもやっぱりそのまま表示しないといけないのか・・・それは参るなぁ。

新サイトの方も改造中。こっちはちょっとどうなるかまだわかんないけど、なんとなく上手く収まったと自画自賛。カウンタの桁を増やしたのは、自意識過剰ですが!

画像はやはりアフィリエイトに頼らない方向でいきます。

あー、日記だから、一応日記らしいことを・・・
何もねえ。
あえて言うなら、レトルトカレーのパックが切れた、くらいか。


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このあと、コメントを入れてみた。テストで。
けど、結局コメント禁止にするので、とりあえず、コメントを記事内に移動しておく。
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Commented by 管理人・馬頭 at 2007-07-25 04:49 x
コメントしてみるテスト

なんか、非公開設定にしてるのに、検索すると出ちゃいますね。
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by xwablog | 2007-07-25 01:41 | 日記