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カテゴリ:用語辞典( 12 )
イーゴリ1世(イーゴリ・リューリコヴィチ)_クワルナフ用語辞典
イーゴリ1世(イーゴリ・リューリコヴィチ。Igor. Ryurikovich。イーゴリ公。02のイーゴリ。イゴリ)

キエフ大公。位913(912)年〜945年。877年生。ノヴゴロド公リューリクの息子(ただし、リューリクの子にしては歳が離れすぎているため、実際の子か疑問はあります)。父親のリューリクは879年に死亡。親族のオレーグがリューリクからイーゴリの後見を頼まれたため、成年した後も国の実権を握ったのはオレーグでした。イーゴリはリューリクの直系として尊重されてはいたものの、国を支配した公はオレーグであったようです。また、年代記でもオレーグの時代はイーゴリではなくオレーグが公として扱われているので、イーゴリがキエフ大公となったのはオレーグが死亡した後としました。
882年にオレーグ率いる軍勢によってキエフ市が征されますが、この時イーゴリも押し立てられて一緒にやってきています。
「彼はキエフの山に到着した。オレグはアスコルドとヂルが公になっているのを見て船の中に軍勢を隠し、別の(軍勢)を後に残し、自分自身は幼いイゴリを抱いてやって来た。」(『ロシア原初年代記』P23より抜粋。)
その後成人してオレーグとともに行動していたイーゴリは、903年にオレーグがプスコフから連れてきたオリガを妻にしました。907年のコンスタンティノープル遠征には行かず、キエフ市にいました。912年の秋にオレーグが死亡すると、この国を指導するようになります。年代記には913年の項に「イゴリはオレグの後に公として治め始めた」とあるので、即位年は913年としました。
イーゴリが統治しはじめた時、強力な支配者であったオレーグがいなくなったために反乱が起きます。即位した913年に起きた反乱は、キエフ市から北西方向に行った場所にいたドレヴァリャーネ族のもので、翌914年にイーゴリは兵を率いてこれを鎮圧し、以前よりも重い税金を掛けました。またイーゴリの時代から、南ロシア平原にやってきたペチェネーグ族との関わりが多くなってきます。915年にはじめてペチェネーグ族が攻めてきたため、これと和平を結んだり、920年にはペチェネーグ族と戦ったりしました。
941年になると、イーゴリはオレーグが以前に行ったようなコンスタンティノープル遠征を行いました。しかし、この遠征はビザンツ帝国の所有する火炎放射機のような兵器「ギリシャ火」によって撃退され、失敗に終わりました。そのためイーゴリは再び遠征を企画し、944年に再度遠征を行いました。前回の失敗に懲りたのか、スカンジナヴィアから「ヴァリャーギ」たちを呼び、また支配下の部族であるポリャネ族、スロヴェネ族、クリヴィチ族、チヴェルツィ族から兵士を集め、さらにペチェネーグ族を雇い、より大きな軍勢で攻めました。
「イーゴリはヴァリャギ、ルシとポリャネ、スロヴェネとクリヴィチ、およびチヴェルツィとペチェネギ(を傭い)、多くの軍勢を集め、彼らから人質をとった。彼は自分の仇を討とうとして、船と馬でグレキに向かって出発した。」(『ロシア原初年代記』P49より抜粋)
しかし、今度は軍勢が多かったせいか、ビザンツ側が和平を求めてきたので、戦わずして戻り、和平条約を結びました。条約締結には相互に使者を送り合い交渉してから、945年に商行為と相互軍事援助を内容とする条約が結ばれました。この条約は911年にオレーグが結んだ条約よりも不利なものだったようです。
945年、従士団がより良き装備のためにさらなる財貨を求めたため、ドレヴァリャーネ族に普段よりも多く課税しました。当時は大公自らが各地を廻って徴税する「巡回徴貢」という方法が行われていました。この時、荒っぽく取り立てたためにドレヴァリャーネ族に恨まれました。イーゴリは一旦キエフに帰還しましたが、もう一度小さな部隊だけを率いてドレヴァリャーネ族に向かって徴税しようと行った時、怒ったドレヴァリャーネ族の住民によって殺されてしまったのです。これはイーゴリの有力な家臣で、ヴァリャーグ傭兵の隊長であるスヴェネリドとその部下の羽振りの良さを、イーゴリの従士団が見て、彼らがより良いものを欲してイーゴリにせがんだ為に行われた二度の徴税でした。ドレヴリャーネ族の人々は自分たちの公マルに相談し、抗議団を送りますが、彼はドレヴリャーネ族の中心都市イスコロステニ市から来た抗議団に耳をかさず、彼らに襲撃されて死亡したのでした。ドレヴリャーネ族の人々の恨みは凄まじく、彼の遺体は曲げた2本の木の頂に縛りつけられて、ふたつに引き裂かれたといいます。彼の死に対する復讐は妻のオリガが行います。
イーゴリの遺体はその地に埋葬され、『ロシア原初年代記』の書かれた時代にもそこに彼の墓があったといいます。
「イーゴリ1世」とは言わず、「イーゴリ公」などと書かれるのが普通です。息子はスヴャトスラフ1世。

(参考文献・『ロシア原初年代記』P17(各公たちの治世の年数)、22(幼かったため後見人をつけられた)23(キエフ市遠征)、29(妻オリガを娶る)、30(コンスタンティノープル遠征)、45(「第4章 イゴリの治世」ドレヴリャーネ族の反乱・討伐。ペチェネーグ族の初襲来・和平)、46(対ペチェネーグ戦)、48(コンスタンティノープル遠征)、49(スヴャトスラフ1世生誕・コンスタンティノープル遠征)、52(条文内に名前)、58(誓い)、59(使者の帰還)、60(ドレヴリャーネ族から徴税)、61(死亡)、(385に肖像画)、『世界歴史大系ロシア史1』P59〜、『岩波西洋人名辞典 増補版』P121、『ロシアを知る事典』P37、『キリスト教人名辞典』P125、『ビザンツ帝国史』P469、)
(05/03/13作成、05/06/11修正、)
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by xwablog | 2007-07-28 20:07 | 用語辞典
オレーグ(Oleg。ヴェシチー。)_クワルナフ用語辞典
オレーグ(Oleg。オレグ。ヴェシチー。ベシチー。予見者。物知れる者。霊験ある者。)

古代ロシアの有力者。キエフの大公。位882年〜912年。リューリクの息子イーゴリの後見人で、軍司令官。ノヴゴロド国の建国者であるリューリクと同じ一族でその部下でしたが、879年頃に臨終となったリューリクによって息子イーゴリの後見人になり、長く国の権力を握ることになります。
882年になると、支配下のヴァリャーグやチュヂ族、スロヴェネ族、メリャ族、ヴェシ族、クリヴィチ族とともに遠征に出ました。クリヴィチ族とともにスモレンスクを支配下に起き、自分の家臣を配置し、さらにリューベチも同様に家臣を置きました。そして、ドニエプル川をさらに南下してポリャネ族の中心都市であるキエフ市に至りました。キエフではリューリクの時代に、南へと出て自ら公位についていたアスコリドとヂルがいたため、軍勢を遠くに配置し、少数の兵士を船に隠して、自分たちは同じ氏族の商人だと称してアスコリドとジルらをおびき出し捕えて、イーゴリと引きあわせて彼らの公位の正当性を否定してから彼らを殺し、死体を山の上に運んで埋めました。こうしてキエフ市を首都とするキエフ公国がはじまることになります。彼の時代からロシアは「ルーシ」と呼ばれるようになります。
また、これまではロシア南部はハザール汗国の影響が強かったものの、これによってそうした影響は排除されていくようになったのです。
オレーグは大公としてキエフに住んでルーシを支配し、スロヴェネ族、クリヴェチ族、メリャ族に納税させました。ヴァリャーグに対しては、ノヴゴロドから300グリヴナを納めるよう定めました。この貢税は、ヤロスラフ1世が死ぬ1054年まで続いたといいます。
883年にドレヴァリャーネ族と戦い、支配下に組み入れて黒貂の皮1枚を税として納めるようにさせました。また同年にはホルヴァチ族を征服しています。884年にハザール汗国支配下のセヴェリャーネ族に遠征して勝利し、彼らの税を軽くして支配下に入れました。885年には同様にハザールの支配を受けていたラジミチ族に使者を送って、キエフの支配を受け入れさせます。このときの納税はハザール汗国と同じでした。オレーグがキエフ市にいた頃である898年に、マジャール族がウゴリスコエ山経由でキエフの近くを通過するという事件がありました。903年、成年になったイーゴリは、すでに自ら統治を行えるようにはなっていたものの、オレーグが実質的にその統治を代行しました。この年にイーゴリにオリガを娶らせました。
907年には、第2次コンスタンティノープル包囲とかオレーグ公のコンスタンティノープル遠征と呼ばれている遠征を行ないました(この遠征が実際にあったどうか不明な点もあります)。この遠征は、イーゴリをキエフに残して出発し、支配下の諸部族を連れて、騎兵と2000隻の船団でコンスタンティノープルに至りました。ビザンツ側は金角湾を封鎖して籠城したので、オレーグは上陸して戦いました。さらに陸揚げした船に車輪と帆をつけてそれで街へ進んだという話も『ロシア原初年代記』には描かれています。これを恐れたビザンツ側は和平を求め、オレーグは自分の兵士にそれぞれ12グリヴナを求め、オレーグは部下のカルル、ファルロフ、ヴェルムド、ルラフ、ステミドを使者として、レオン6世とアレクサンドロス3世の両共治帝と交渉させました。ビザンツと通商条約を結ぶことで、旅費や滞在費を負担してもらい、そのかわりに帝国内での暴挙の禁止や、コンスタンティノープルでの滞在のきまりを取り決めました。この条約の調印においては、双方は自分の信仰に基づいて誓約したことが『ロシア原初年代記』に記されています。911年に使者を送り、9月に条約を正式に批准しました。
912年の秋に、オレーグは馬の頭蓋骨を踏んだ時に出てきた蛇に咬まれ、それによって病気になって死亡しました。これは五年前に妖術師から「馬によって死ぬ」と予見され、すでに死亡していたその時の馬の死体を確認するために、うち捨てられていたその馬の骨を見にいって、まさに予見通りに死亡したのです。しかし、この話は似た話が北欧のフォークロアにあるので、伝説だと見たほうがいいかもしれません。
『ロシア原初年代記』によると、彼はシチェコヴィツァ山に埋葬されたとされますが、伝説では北方へと帰り、墓はラドガに造られたといいます。
彼の統治が行われていた時代である909年に、16艘のルーシ船団がカスピ海上のアベスグン島にやってきて、停泊していた商船団を壊滅させたらしいです。さらに、910年にはサーリ市(サリ市)を占領したようですが、これらに商船団の活動に関して、オレーグは関係あったのかどうかは不明です。
『ロシア原初年代記』におけるオレーグに関する記述は次の通りです。P12(黒いウグリがキエフ市近くを通過)、17(各公たちの治世の年数)、22(委任)、23(「3章・オレグの治世」)、29(イーゴリに妻を娶らせる)、30(コンスタンティノープル遠征)、40(条約締結後使者から報告を受ける)、41(愛馬の話)、42(死亡)、45(イーゴリの治世のはじまり)、336(注)、など。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P114、『ロシア・ソ連を知る事典』P95、『ハザール謎の帝国』P125、『岩波西洋人名辞典 増補版』P313、『世界歴史大系ロシア史1』P51〜、『ロシア原初年代記』P22〜、『角川世界史辞典』P168、)
(05/02/24作成、05/03/13修正、07/07/28追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 19:01 | 用語辞典
リューリク(リューリック)_クワルナフ用語辞典
リューリク(リューリック。リーリク。リュリク。Ryurik。01のリューリク)

ルーシの公(ノヴゴロド公)。位862〜882(879)年。
混乱する北ロシアの諸部族(チュヂ族やクリヴィチ族やスロヴェネ族など)によって迎えられたノルマン人の豪族。シネウスとトルヴォルという兄弟たちとともに来て、リューリクはノヴゴロドに、シネウスはベロオーゼロに、トルヴォルはイズボルスクに住みました。864年にシネウスとトルヴォルが相次いで死亡すると、ふたりの支配していた街に自分の家臣を送り込んで支配下に置きました。この時派遣した家臣はヴァリャーグたちでした。彼の統治下にあった街は、ノヴゴロド、ポロツク、ロストフ、ベロオーゼロ、ムーロム。家臣の中にキエフ公となるアスコリドとヂルがいました。
882年、彼は臨終の間際に公位を息子イーゴリに譲り、一族の有力者であるオレーグにその後見を頼んでおいてから死亡しました。なかば伝説の人物。
通し番号[01]

(参考文献・『岩波西洋人名辞典 増補版』P1659、『ロシア原初年代記』P19〜、『世界歴史大系ロシア史1』P39、『ロシア・ソ連を知る事典』P632、)
(05/02/16作成、)
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by xwablog | 2007-07-28 18:55 | 用語辞典
キエフ市(Kiev)_クワルナフ用語辞典
キエフ市(Kiev。キーエフ。キーエヴ。)

ウクライナ中北部の街。ドニエプル川中流右岸にあって、古代から交易拠点として栄えました。現在はウクライナ共和国の首都。モスクワの南西856キロメートル。人口263万人(1996年)。中世に建国された東スラヴ人を中心とした国家「キエフ公国」の中心的都市。ドニエプル川右岸にある小高い丘陵の上に作られ、ドニエプル水系の水上交通の要所であるとともに、北の森林地帯と南のステップ地帯の境目にある東西交易路の要所でもあります。
9世紀には東スラヴ人の部族連合ポリャーネ族の首邑として栄えていましたが、860年頃、リューリクの家臣であったと思われるヴァリャーグのアスコリドとジルがこの街を占領し、公として治めはじめました。それまで、もしくはアスコリドとジルの時代までは東の大国ハザール汗国に貢納していましたが、これ以降はその支配から脱したようです。
882年にはアスコリドとジルと同じく北ロシアから遠征してきたオレーグがこの街を征服し、以後南北ロシアを統一したキエフ公国の首都となります。このロシア・ウクライナ・ベラルーシに及んだ国家は、「ルーシ」とも呼ばれましたが、この街の名前を付けて「キエフ・ルーシ」とも呼ばれます。また、その後キエフ公国の発展の中心にあったこともあり、「ルーシの都市の母(ロシア諸都市の母)」と呼ばれています。
988年、ウラジーミル1世の治世にキリスト教が国教とされると、府主教座が設置され、キエフ公国のキリスト教文化の中心地として多くの教会が建設されるようになります。中でもヤロスラフ1世の時代に建設されたソフィア大聖堂は、長い間キエフ公国最大の教会でした。またキエフ公国最初の修道院、ペチェルスキー修道院もキエフ市の近くに建設されています。
11世紀までは繁栄を続け、1100年頃には人口が4万になるほどの大都市となっていましたが、分領制時代に入ると公一族の争いや交易の減少、騎馬民族ポロヴェツ族の度重なる侵入といった事が重なり、衰退がはじまりました。特に北東ルーシの発展とともに中心的役割を担うことはなくなりましたが、それでも最も権威ある街としての重要性は残っていました。
1169年にはウラジーミル=スーズダリ公のアンドレイ・ボゴリュプスキーは軍勢を派遣してキエフ市を占領させ、自らがキエフ大公位に即きます。これが実質的にはキエフ市の政治的終焉だと言う研究者もいるようですが、この時点ではまだキエフ市には占領し、キエフ大公になるだけの価値がある重要性が残っていたようです。12世紀末からはチェルニゴフ、スモレンスク、ガーリチ・ヴォルィニの諸公がキエフ大公位を巡って争い、ウラジーミル大公もそれに介入しています。
13世紀、モンゴル軍の遠征はこの地まで及び、1240年12月に包囲され、陥落・炎上し、街そのものがほとんど失われました。1246年にプラノ・カルピニがモンゴルまで行くための旅のはじめにこの街を通った時、この街には200戸ほどしか住民がいなかったと記録しています。
「そして、ロシアの首都キエフをかこみ、長期の包囲攻撃ののち、ここを占領して住民を殺戮しました。わたしどもが旅行の途中その土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数えきれぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。キエフは、以前は非常に大きく人口稠密な町だったのですが、いまでは、ほとんど無に帰してしまいました。こう申しますのは、今日では、そこの人家はせいぜい200戸あるかないかで、住民は全くの奴隷状態におちいっているからです。」(『中央アジア蒙古旅行記』P37「プラノーカルピンのジョン修道士の旅行記」より)
1300年にキエフ府主教座が、北東ルーシの街ウラジーミルへと移され、宗教的中心地としての役割も失い、14世紀になって隣国リトアニアが強大になると南西ルーシは次々と占領され、1320年にはリトアニア大公ゲディミンによってキエフ市も征服されました。
『ロシア原初年代記』にはキエフで渡し守をしていたキーに街の名前が由来すると書かれていますが、実際の名前の由来は不明。『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』P100にはハザール汗国の将軍クイ(クィ。クー)に由来すると断定的に書かれていますが、これは「キー」のことを言っているのだと思われます。
『ロシア原初年代記』によると、キエフ市の丘の北東側、ポチャイナ川と丘陵部の間にポドリエという下町がありました。

(参考文献・『コンサイス外国地名辞典』P241、『ロシアを知る事典』P161、『中央アジア蒙古旅行記』P37、『新版 世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』P100、『ロシア原初年代記』P61、578、)
(05/06/11作成、05/09/24追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 18:40 | 用語辞典
ノヴゴロド市(Novgorod。大ノヴゴロド。ヴェリキー・ノヴゴロド。)_クワルナフ用語辞典
ノヴゴロド市(Novgorod。大ノヴゴロド。ヴェリキー・ノヴゴロド。ノブゴロド市。)

現在のロシア北西部、ノヴゴロド州の州都。古くから栄える都市。イリメニ湖の北岸、ヴォルホフ川の川沿いに築かれた交易都市で、『ロシア原初年代記』においては9世紀から登場しますが、それ以前の5世紀後半から6世紀前半には集落があったようです。862年には北部ロシアで大きな勢力を持っていたスロヴェネ族やチュヂ族、クリヴィチ族などは、混乱した状況を収めてもらうために、スカンジナヴィア半島からノルマン系の豪族であるリューリク一族を招致しました。その時リューリクがその統治の拠点としたのが、ノヴゴロドでした。この街はその当時から、バルト海とロシア国内の河川交通路を結ぶ交通の要衝だったのです。バルト海からネヴァ川、ラドガ湖、ヴォルホフ川を伝ってノヴゴロドへと来ることが出来、ノヴゴロドから南へ向かえば、イリメニ湖、ロヴァチ川、西ドヴィナ川を通って、黒海まで流れるドニエプル川へと行くことが出来ます。また、東へと向かえばオカ川を下ってヴォルガ川まで行くことも出来ます。ドニエプル川とヴォルガ川という、ロシアで最も重要な2つの水系、そしてバルト海へとアクセスすることの出来る地点にあったのです。リューリクはこのノヴゴロドを拠点として、周辺の諸部族を従え、ノヴゴロド国を建国します。これがロシアにおけるはじめての国家でした。その後リューリクが死亡し、息子といわれるイーゴリの時代となると、イーゴリの後見人であったオレーグが領土を格段に増加させます。オレーグはイーゴリを押し立て南へと遠征し、ドニエプル川沿いのキエフ市を手に入れて国の中心をキエフ市へと移したのです。こうして巨大な領土を持つキエフ公国が誕生し、ノヴゴロドは国内第二の都市へとなります。しかし、キエフ大公は自らの後継者をこの街の統治者として派遣するなど、その重要性は10世紀〜12世紀を通して保持され、多いに発展しました。10世紀の大公ウラジーミル1世やその子ヤロスラフ1世は、このノヴゴロドの力を手にすることで大公へとなることができたほどです。
ノヴゴロドにおいては市民の力が強く、民会の発言権が大きかったので、その支持が欠かせませんでした。時代が下り、キエフ大公の支配力が弱まると、ノヴゴロドはこの民会を中心に市政を執り行うようになり、分領制時代になると独立した北部ロシア最大の国へと押し上げました。もっとも、市民とはいっても、徐々に市内の貴族層が市長官をはじめとする市政の重要な役職を担うようになり、政体も貴族共和制といったものになっていきます。この時代、ノヴゴロドはリューリク家から人を派遣してもらい、ノヴゴロド公として赴任してもらいましたが、これは勤務公と呼ばれる雇われ軍司令官でした。軍事の専門家は、外部から来てもらっていたのです。
13世紀にモンゴル軍がロシア全土を占領していった時も、ノヴゴロドは直接占領されることなく済みました。
14〜15世紀にはロシア北東部においてモスクワが勢力を拡大し、モスクワ大公がノヴゴロド公を兼ねるようになりますが、それでも市政はノヴゴロドの貴族たちが握っていました。市政を独占する数十の有力貴族が、都市内の五つの区に分かれて権力闘争を繰り返し、ノヴゴロド周辺とさらにははるか北方の広大な土地を支配したのです。
ノヴゴロドは広大な領土から毛皮や蜂蜜を主力輸出商品とし、莫大な富を築き繁栄しましたが、1471年にモスクワ大公イヴァン3世との戦いに敗北し、1478年には実質的に併合されてしまいました。その後も長く重要な経済都市として栄えはしましたが、18世紀にピョートル大帝がペテルブルクを建設すると、以後歴史の表舞台からは退いていきます。
街の中は現在でも数多くの教会が残り、石造りのクレムリンは巨大です。中でも、クレムリン内のソフィア聖堂や、イリイナ通りのスパス・プレオブラジェーニエ聖堂などは必見。
はじめて発見された白樺文書はノヴゴロドのかつてのドミートリー通りにあたるヴェリーカヤ通りの発掘現場から1951年に発掘されました。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P571、『世界歴史大系ロシア史1』P34〜、『コンサイス外国地名辞典』P726、『白樺の手紙を送りました ロシア中世都市の歴史と日常生活』と『ロシア中世都市の政治世界』は全て重要、)
(05/02/17作成、06/02/07追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 18:37 | 用語辞典
キュロス2世(キュロス大王)_クワルナフ用語辞典
キュロス2世(キュロス大王。英語Cyrus、古代ペルシア語Kuru、古代ギリシア語Kyros。サイラス。クールシ。)

ペルシアの古代帝国、アカイメネス朝(アケメネス朝)の創始者。アンシャンとパールサの王。位前559〜前530年。ペルシア人の10の部族の中のひとつ、パサルガダイ族の一氏族であるハカーマニシュ家(アカイメネス家)のカンビュセス1世とメディア王女の子で、メディア王アステュアゲスの支配下にあったが、イラン高原の南西部にあるパールサ地方を根拠地として、ペルシア人の国家を建設。前550年にアステュアゲス王を捕らえてメディア王国を滅ぼしました。イラン高原の諸部族を統合し、西方のアルメニアやカッパドキア地方までも平定。その後、前546年にクロイソス王を撃破してリュディア王国をも滅ぼしました。前545〜前539年に、家臣には小アジア沿岸の諸都市を征服させ、カスピ海、インダス河流域、トルキスタン地方といった周辺地域に親征を行って、その勢力をさらに広げました。すでに帝国の領域となっているヒルカニアやパルティアは、再従兄弟のヒュスタスペスにまかせ、さらに東方にあるドゥランギアナ、アラコシア、マルギアナ、バクトリアを併合。東方から帰還した後、前539年にはバビロンを攻めてメソポタミアにおける最後の敵、新バビロニア王国を併合。バビロン捕囚によって強制移住させられていたバビロン市のユダヤ人たちは、前536年に解放されることになります。そして、キリキアからフェニキア(シリア)の諸部族を服従させて、エジプト以外の全オリエント世界を領有する大帝国を一代で建設しました。かつてアッシリアの行った諸民族への過酷な支配とは対照的に、寛容な支配を行って、被支配者たちの統治に成功。支配民の風習や宗教を許し、メディア王国を滅ぼした際にメディアを裏切ったハルパゴスなど、諸部族から人材を登用しました。
ヘロドトスの記した『歴史』にその生涯が書かれています。彼は北東にいたマッサゲタイ族との戦いの時に戦死したといいます。死後、その遺体は王宮のあるパサルガダエに埋葬されました。
彼の建設した帝国は200年に渡り繁栄することになりました。

(参考文献・『角川 世界史辞典』P243、『岩波西洋人名辞典 増補版』P401、『世界皇帝人名辞典』P105、『世界帝王系図集 増補版』P140、『世界歴史叢書 イラン史』P4、講談社『世界の歴史 第9巻 ペルシア帝国』P87〜、)
(05/02/24作成、)
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by xwablog | 2007-07-24 02:04 | 用語辞典
ケート人(Kety。ケット。エニセイ人)_クワルナフ用語辞典
ケート人(Kety。ケット。エニセイ人)

西シベリアのエニセイ川下流や中流に住む民族。「エニセイ・オスチャック」「エニセイ人」「ケット」などとも呼ばれます。1989年の段階で、その人口はわずかに1084人しかいません。ケート語は、エニセイ諸語の一派の末裔(エニセイ諸語自体は消滅してしまっています)。かつては狩猟民で夏と冬とに居住地を変え、円錐形の天幕で生活していました。シャーマンが重要な社会的役割を持っていて、熊祭りや豊猟の祈願の儀礼が行われました。彼らは独自の神話体系を持っていて、天神、悪神、文化英雄、自然神、シャーマン、人間の6段階の世界からなる階層的な宇宙観を持ちます。また、人間は自分本来のものを含め、だいたい七つほどある魂を持っているとされます。こうした神話体系を維持しているのは、一種の司祭であるシャーマンたちで、5家族に一人の小シャーマンとケート人全体で15人の大シャーマンがいます。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P229、『世界の民族14 シベリア・モンゴル』P124、)
(04/11/03作成、)
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by xwablog | 2007-07-24 01:58 | 用語辞典
アカイメネス朝(Achaemenes。アカイメネス家)_用語辞典
アカイメネス朝(Achaemenes。アカイメネス家。アケメネス家。アケメネス朝。ハハーマニシヤ)

古代ペルシアの帝国を統治した王朝。紀元前550年〜前330年まで。首都はパサルガダエ、スーサ、ペルセポリス。開祖アカイメネス(ハカーマヌシ。ハハーマニシュ)は前8世紀から7世紀の人物で、中央アジアの近くから南下してペルシア湾北岸のパルーサ(ペルセス。現在のファールス地方)に移住したペルシア人系の領主の一族の出身です。彼らの一族は古都パサルガダエ(パーサールガード)を中心に支配領域を拡大していきましたが、この頃はまだメソポタミアの強国メディア王国に服属し、地方領主的な扱いをされていました。しかし、前550年、メディア王女を母にもつキュロス2世が叛旗を翻し、二度の戦いでメディア王アスティアゲス(キュロス2世の祖父にあたる)を破ってメディア王国を滅亡させました。アスティアゲス王はペルシアの習慣に従って処刑はされず、残りの人生を死ぬまで軟禁されて暮らしたといいます。キュロス2世はその後、リュディア王国、新バビロニア王国、ペルシア東部などを征服し、アッシリア帝国に次いで2番目にオリエントの大部分を統一したとも言われますが、その領土面積はアッシリアを遥かに上回ります。キュロス2世の息子カンビュセス2世がインダス川までの地域とエジプトを征服、その後に帝位についたダレイオス1世はバルカン南部の一部までをも征服し、現在のイラン・イラク・トルコ・シリア・レバノン・パレスチナ・イスラエル・ヨルダン・アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア・アフガニスタン・パキスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタンの一部・エジプト・リビアの一部・ブルガリアの一部・マケドニアの一部・ギリシアの一部に相当する空前の大帝国へと発展しました。当時の文明の中心地であった地域を含む巨大な領土と、圧倒的に多い人口(古代において、世界の人口の半分はオリエントに集中していたという説もある。ただし、これはもっと古い時代のことかもしれない)、高度な政治システムと強力な軍隊を持っていたこの帝国は、約200年に渡ってオリエント世界の中心であり続けたのです。同じくオリエントを支配したアッシリア帝国は恐怖による苛烈な支配によって憎まれましたが、それと比べるとアケメネス朝の支配は宗教的自由を認めるなど寛容な政策を取っていました。この帝国のことは首都ペルセポリスの碑文やベヒストゥーン碑文などによっても伝えられていますが、特にギリシア人の記した書物によって知られています。ペルシアに隣接することになったギリシア人たちは、この頃すでにポリスと呼ばれる都市国家群を形成して互いに争っていましたが、何度も干渉し、侵略してくるペルシア帝国の影響力は無視できないほど大きかったのです。「歴史の父」と呼ばれる歴史家ヘロドトスが記した『歴史』は、第1回〜第3回のペルシア戦争(前500〜前449年)の内、前479年までについて記しています。この巨大国家が滅亡したのは、ギリシア世界の端にあったマケドニア王国の若き王アレクサンダー3世(大王)が攻め入ってきたためでした。マケドニア軍は前333年のイッソスの戦い、前331年のガウガメラの戦い(アルベラの戦いと呼ばれることもあるが、それはガウガメラで戦い、逃れたペルシア軍がアルベラで物資を遺棄したから)によって勝利し、東ペルシアに逃れたダレイオス3世は、その地方の領主ベッソス(ガウガメラの戦いにも参戦していた。後にアルタクセルクセス3世を名乗ったらしい)によって刺殺され、こうしてペルシアはアレクサンダー大王によって征服され、アカイメネス朝は滅びたのでした。

(参考文献・修道社『世界歴史叢書イラン史』・平凡社『カラー世界史百科』・岩波書店『岩波西洋人名辞典 増補版』・青土社『暗殺の事典』、河出書房新社『世界の歴史2古代オリエント』P397、)
(03/08/31作成、05/04/21修正、)
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by xwablog | 2007-07-23 22:36 | 用語辞典
ツンドラ(tundra)_クワルナフ用語辞典
ツンドラ(tundra)

ウゴル語で「木のない土地」由来する、ウラル地方の古語。氷河や万年雪におおわれた氷雪地帯から、高緯度地方の森林限界までの、まさに「木のない土地」のこと。だいたい北緯60度以上の地域。日本語では「寒原」や「凍原」とも書きます。こうした土地は、寒冷過ぎるために地面が凍結し、樹木が育つことがありません。しかし、まったく草木が生えないわけではなく、昼が長くなり、気温も0度を越えるくらいには暖かくなる夏の2ヶ月間には、湿地状になった低地は一斉に草花が生えます。苔や地衣類が長年に渡って蓄積したため、地中には泥炭層があります。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P498、)
(04/10/17作成、)
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by xwablog | 2007-07-21 21:16 | 用語辞典
ハンティ族(Khanti。Khanty。ハンチ。ハンティ人)_クワルナフ用語辞典
ハンティ族(Khanti。Khanty。ハンチ。ハンティ人)

西シベリアにあるオビ川流域とイルティシ川東岸側に住むウラル語族系の民族。かつてはハンティ族の西方に多く住むマンシ族とともに「オブスキー・ウゴル」と総称され、ハンティ族は「オスチャク(Ostyak。大河の民の意のハンティ語に由来)」として知られていました。彼らの話すハンティ語は、マンシ族のマンシ語と一緒にオビ・ウゴル諸語に分類され、今では遠く離れてしまっていますが、ハンガリー人の話すハンガリー語とも類縁関係にある言語で、ハンティ語、マンシ語、ハンガリー語を合わせてウラル語派をなします。シベリアのフィン・ウゴル語族は、ハンティとマンシだけです。ハンティ族とマンシ族はもともとは同じ民族でしたが、その後鉄器時代以降と思われる時代に分かれ、それぞれ独自の文化を持つようになりました。ハンティ・マンシの両族は、紀元後1000年頃に東ロシアと西シベリアのステップ地帯から、東方・北方へと移動をはじめました。もともとは騎馬文化を持っていたようですが、厳しい自然が支配するシベリアにおいては使用に適さないため、先住民の生活を導入するようになりました。10世紀ころには北ルーシに居住するロシア人との接触をはじめ、11世紀までにはノヴゴロド市からやってくる商人との定期的な交易を行っていました。その後モンゴル帝国の拡大にともない服属し、西シベリア汗国の中に含まれるようになりました。その後、ロシアによるシベリア征服によって、その支配を受けるようになりましたが、搾取のための苛酷な統治は人口を減らさせ、彼らの文化を破壊・衰弱させました。
現在の人口は22283人(2004年)。このうち52.8パーセントがハンティ・マンシ自治管区に住みます。残りの多くはヤマロ・ネネツ自治管区に居住。ハンティ語は言語的に、東南北のみっつの方言群に分類されます。南方方言群の集団は、タタールの到来以後、定住生活を導入し文化的影響を受け、18世紀にロシア人の植民が活発になると人口が激減しました。北方方言群の集団はネネツ族のツンドラ・ネネツからの影響を受け、ネネツ化が進みました。マンシ族とも雑居が行われその影響も受けることになり、こうして文化的に多様な諸集団が形成されましたが、フィン・ウゴル学者の研究により、これら諸集団は「ハンティ族」との分類がなされ、その後ソ連の政策によって彼らの名前を冠する行政区分を設置したことで、ハンティ族はその民族として維持されることになります。ソ連時代の行政区分は、1930年に設置された「オスチャク・ヴォグル民族管区」、1940年に「ハンティ・マンシ民族管区」、1977年に「ハンティ・マンシ自治管区」と改称をして、1993年にはロシア共和国のチュメニ州の所属から離脱して、ロシア連邦直属の自治管区となりました。
かつての生活様式は狩猟・漁猟・トナカイ飼育のみっつが基本で、農業は行わず、森林などからの採集によって木の実、樹液(カバの木の樹液を飲用に採る)などを集めていました。
ハンティ族とマンシ族の信じるシャーマニズムの信仰では、たくさんの神々と精霊がいて、生贄などの儀式を行う祭事場にはトーテムの像や神像を安置し、シャーマンを通じて交信しました。ハンティ族では男には五つの魂、女には四つの魂があると考えられています。熊は四つの魂を持った存在で尊崇の対象でした。ハンティ族は死者を恐れ、死後もその霊が生者の魂を捕まえようとする、と考えています。墓はネネツ族と同様の形式。
基本的に父系社会で、同一の系族(リニージ)内での結婚は出来ません。試罪法で争いを解決しました。
「ハンティ(khanty)」は「khanti」の複数形。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P608、『世界の民族 シベリア・モンゴル』P50、)
(05/09/15作成、)
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by xwablog | 2007-07-21 18:46 | 用語辞典