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江戸時代におけるイギリスのイメージの変遷。T・スクリーチ『江戸の英吉利熱 ロンドン橋とロンドン時計』
web拍手レス
>『家康はなぜ江戸を選んだか』そのうち奥野さんとか誘って「江戸以前の江戸」巡りしましょう@蒸しぱん
ええ!やりましょ〜! 実は前々から企画だけは進行中。今、いろいろ勉強してますので、行った時に会話についてけるようにがんばってみます。
あと、今度、奥野さんと江戸東京博物館に行く予定もあるので、その時もどうでしょう。

>江戸時代の日本とイギリスの関係は興味深いですね。若し日本とイギリスの交流が清国やオランダと同じ位、
>いやそれ以上に継続されていたり、江戸時代の時点で日本人の方からもイギリスへ往く事が大々的に
>続いていたりしたら(江戸時代の日本人の目から見たヨーロッパ論が出される等)一体世界はどのように変わっていたのだろうか……
>なんてふと考えてしまうのですよ。
> by 萬の川も海に集う
それはありますね〜。鎖国なんかしないでいたら、もっと面白いことになったかもしれないのに・・・
世界史的な影響も何かあったかも。
けど、あの鎖国の状況下で選んだ相手がオランダだったというのも面白いですね。

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江戸の英吉利熱 ロンドン橋とロンドン時計

『江戸の英吉利熱 ロンドン橋とロンドン時計』

(タイモン・スクリーチ。訳/村山和裕。講談社。講談社選書メチエ352。2006年。1700円。254ページ)
はじめに 想像の交易
第一章 平戸商館にて
第二章 布、鎧、ポルノグラフィー モノの交易をとりまく逸話
第三章 時計に憑かれた江戸っ子
第四章 江戸のロンドン
第五章 海を渡った美術品
第六章 絵の国イギリス
第七章 帝国主義イギリスの登場 憧憬から恐怖へ
結び 二重の歴史の物語
参考文献


記録に残る初来日のイギリス人は1600年にやってきた三浦按針ことウィリアム・アダムスですが、それ以降、イギリスと日本の関わりは思ったより深く、実際の交易が出来なかった鎖国時代でも、そのイギリス製品を通じて意外と知られていたようです。この本では、そうした「日本において知られていたイギリス」というものを紹介していきます。書いた人は、イギリス人で日本美術史・江戸文化論の専門家・タイモン・スクリーチ。この人、メチエで『春画』、青土社から『定信お見通し 寛政資格改革の治世学』『江戸の思考空間』などの日本語の本もありますね。はじめ外国人が書いてる本だとは気づかずに読んでましたが、内容は凄い面白いです。

いままで、日本の戦国末期から江戸時代を通じての外国との貿易についてのある程度のイメージを持っていましたが、前に読んだ『海外貿易から読む戦国時代』(武光誠)に引き続き、これを読んでそれがガラリと変わりました。
イギリスと日本の交易は、江戸時代初期にわずかな期間だけ行われるのですが、1613年から10年間も商館を設置して本格的に交易をしていたイギリスが、1623年に平戸の商館から出て行くのは、収益があがらないため自分たちから出ていったのであって(あと、アンボイナ事件が影響してる)、鎖国はその後のことでした。(まず、ここらへんから「鎖国によってオランダ・中国以外が閉め出された」という思い込みが自分にあったことが判明)
再度戦略を練り直して帰ってくるつもりだったイギリスは、ピューリタン革命の混乱のため余裕がなくなり、次に来れたのは1673年のリターン号来日の時でした。しかし、この時はすでに鎖国時代に入っています(鎖国は家康じゃなく秀忠が父の死後に行ったわけです)。せっかく来たのに鎖国政策によって貿易が許されなくなるのですが、その理由としてイギリス国王チャールズ2世がポルトガル王女と結婚した、という点が重視されました。ポルトガルはカトリックで非常に警戒されていたわけで、この宗教的な問題が焦点となってイギリスも駄目ということになってしまったでした。
これ以降、1808年のフェートン号事件までイギリスは、出島経由の情報だけということになるのですが、それでも想像以上に知られた国になっていきます。
それはなぜなのかといえば、17世紀後半からオランダは衰退期に入り、18世紀のイギリスとなるともう絶好調の全盛期に入っていき、日本に流入してくる南蛮商品もイギリス製品が多くなるからだそうです。当時、オランダ船との交易で取引された商品の中でも、メインはどうやら東南アジアから運んでくる砂糖とかだったらしいのですが、それ以外にもオランダ本国経由でイギリス製品の時計とかが大量に持ち込まれています。江戸時代に時計やガラス製品(特にメガネ)はたくさん取引されたようです。これらは18世紀後半から科学技術の最先端をいっていたロンドンの製品が多かったのです。ロンドン塔の時計を見ればわかるように、当時はスイスではなくイギリス・ロンドンが時計製造の中心地だったわけですね。こうしたアイテムを江戸時代の人びとは珍しがって重宝したわけです。
これらの製品の他に、さまざまな本や絵画も日本に来ていますが、それらから手に入れた情報は意外なほど人びとに知られていて、江戸時代の人が江戸とロンドンを比較して論じたりとかもしてるようです。ともに当時の世界で桁違いの最大の街でした。そして、共に街の象徴として橋を持っていました。ロンドン橋と日本橋です。橋という公共建造物が街の中心的存在としてイメージされているのは面白いですね。江戸時代の人がロンドン橋について知っているということも面白い。
こうして、凄い街ロンドン・凄い国イギリスが知られていき、憧れのようなイメージすら持たれるようになるわけですが、これが19世紀に入り幕末に近くなってくると事情が変わってきます。なにせ、すでに世界の各地に植民地を持ち、帝国主義むき出しで高圧的にやってた時代ですから、日本国内にもそれを感じとって危機感が出てくるわけです。その状況はフェートン号事件やらで格段に緊張していきます。
面白かったのは、17世紀にはイギリスとポルトガルの繋がりが問題になったのに、今度は19世紀になるとイギリスとロシアの同盟的関係が問題になってくるところ。ラクスマンやレザノフの来日なども重なり、イギリス・ロシアが示し合わせて南北から進出してくることを想像したわけですね。
1813年にはラッフルズの派遣した船が長崎に来るのですが、やっぱりこれも拒否してしまい、結局明治維新の開国まで正式な交易・国交はありません。

こうしたイギリスに対するイメージの変遷があったということですが、これはその後の薩英戦争やら日英同盟やらでまた変わっていくのでしょう。この本では、ラッフルズの派遣した交渉団の話あたりで終ってるので、江戸時代のイギリスイメージについての本、ということになります。
なかなか興味深い点がいくつもありますので、江戸時代の日本と外国との関係を考える上では是非読むべきかと。

これ以外にも面白い話がたくさん載ってました。
イギリスのことを当時の日本では「アンゲリア」と呼んでいたようで、これを「諳危利亜」「諳厄利亜」などと書いたそうです。スクリーチ氏は、ウィリアム・アダムスの「三浦按針」の「按針」は「水先案内人」の意味じゃなく、「諳人」、つまり「アンゲリア人」の意味じゃないか、とも書いています。なるほどー。
あと、1623年にイギリス商館が一時閉鎖される時、徳川家康に退去の挨拶をしにいったのは1610年にハドソン湾を見つけたヘンリー・ハドソン氏の息子リチャード・ハドソンだったとか。彼はまだ少年だったけど、日本語を習得させられていたそうです。(ちなみにヘンリー・ハドソンはあのモスクワ会社に雇われていたことがある。ハドソン湾発見の時はイギリス東インド会社に。ともに北方航路の発見のために働いたわけです)
イギリス商館長のコックスは、日本にあったかい服がないことに着眼し、毛織物(当時のイギリスの主要輸出物)を輸入しようとしたけど、なぜか売れなかったそうです。そういや、日本は家屋や服は夏の蒸し暑さの方への対応重視で、寒さについてはほっとかれてますね。日本で売れた物は、当初は武器や絵画などでしたが、絵の中でもポルノグラフィーと戦争画が売れたそうです。海戦ものは特によかったとか。その後、武器の輸入は厳しく制限されてしまったわけですが、武器の描かれた絵すら禁止されたそうです。逆に、日本からの輸出品で人気があったものに、着物やら屏風やらがあったそうです。屏風は今だと「スクリーン」ですが、当時は「ブーブス」「ビォーブス」と呼んだそうです。
ウィリアム・アダムスはイギリス人ですが、日本に来たのはオランダの商船団に雇われてのことだそうです。当時、イギリスは海外進出に一歩遅れてたわけです。なので、彼が雇い主であったオランダ東インド会社のことを優先することをイギリスの商館長だったセーリスは憤慨したりしてます。
ウィリアム・アダムスと一緒に漂着したヤン・ヨーステン(耶楊子)は、フルネームをヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインと言うようにオランダ人です。三浦按針から「按針町」と名付けられたように、ヤン・ヨーステンが「八重洲」の地名の語源になったのはまあ、知られていますが、彼のようにオランダ人は世界各地に住んでたわけで、ロンドンでも彼と同じ名のヨーステン某という人がいて、その人の名前からロンドン市内の地名ユーストンが来てるとか。
17世紀のイギリスの海軍大臣で、サミュエル・ピープスという人物がいますが、この人が赤裸裸に書いた『日記』があって(日本でも訳されたものが出てる)、その中で、日本の着物を来て肖像画を描いてもらったとあります。まあ、それはいいんですが、その日記の中に名前が出てくる本で『少女学園(Ecole des filles)』(匿名、1655年)というのがあるそうです。これは、当時よく知られたポルノ小説なんだそうですが、なんかタイトルの付け方が今に通じるとか思いました。
江戸にやってきたイギリスのからくり・機械類の中で、ラッフルズの派遣した船が持って来た公運儀というのがありまして、これはいわゆるプラネタリウムとかワールド・マシンとかオレリーと呼ばれる機械のこと。惑星の動きを再現できる道具なんですが、この話のとこに三代目の製造者ロウリーが作ったオレリーの一台はピョートル大帝に贈られたと書かれてました。ちなみに江戸時代中期に天文学が流行ったのは、暦を改めるために調べなくてはならなくなったからだそうです。でも、その根本の理由がここには書いてない。どうやら「改暦」というやつらしい。今まで使ってたのが800年前のまんまだったので、ずれが大きくなってきたから、これを直すため天文学が重要になったとか。デ・ラランデも読まれたし、ジョン・ケイルの本も訳されたとか。コペルニクスは「刻白爾」「亥白爾」(こっぺる)だそうです。「刻白爾ナル者、西洋波邏泥亜国(ホログネ国=ポロニア=ポーランド)登法爾(トホウルン)ト云所ノ人也、・・・」と『亥白爾天文図解』という写本に書いてあるらしいけど、そういう実用的な意味で必要とされたのは面白いなぁ。


参照サイト
ウィリアム・アダムス(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9
リチャード・コックス(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
ハドソン湾(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%B9%BE
ヤン・ヨーステン(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B3
サミュエル・ピープス(wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%B9
外国名の漢字表記
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse357.html
日本の暦 近世の改暦(国立国会図書館)
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_kaireki.html

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by xwablog | 2008-06-05 05:53 | 書庫
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