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オレーグ(Oleg。ヴェシチー。)_クワルナフ用語辞典
オレーグ(Oleg。オレグ。ヴェシチー。ベシチー。予見者。物知れる者。霊験ある者。)

古代ロシアの有力者。キエフの大公。位882年〜912年。リューリクの息子イーゴリの後見人で、軍司令官。ノヴゴロド国の建国者であるリューリクと同じ一族でその部下でしたが、879年頃に臨終となったリューリクによって息子イーゴリの後見人になり、長く国の権力を握ることになります。
882年になると、支配下のヴァリャーグやチュヂ族、スロヴェネ族、メリャ族、ヴェシ族、クリヴィチ族とともに遠征に出ました。クリヴィチ族とともにスモレンスクを支配下に起き、自分の家臣を配置し、さらにリューベチも同様に家臣を置きました。そして、ドニエプル川をさらに南下してポリャネ族の中心都市であるキエフ市に至りました。キエフではリューリクの時代に、南へと出て自ら公位についていたアスコリドとヂルがいたため、軍勢を遠くに配置し、少数の兵士を船に隠して、自分たちは同じ氏族の商人だと称してアスコリドとジルらをおびき出し捕えて、イーゴリと引きあわせて彼らの公位の正当性を否定してから彼らを殺し、死体を山の上に運んで埋めました。こうしてキエフ市を首都とするキエフ公国がはじまることになります。彼の時代からロシアは「ルーシ」と呼ばれるようになります。
また、これまではロシア南部はハザール汗国の影響が強かったものの、これによってそうした影響は排除されていくようになったのです。
オレーグは大公としてキエフに住んでルーシを支配し、スロヴェネ族、クリヴェチ族、メリャ族に納税させました。ヴァリャーグに対しては、ノヴゴロドから300グリヴナを納めるよう定めました。この貢税は、ヤロスラフ1世が死ぬ1054年まで続いたといいます。
883年にドレヴァリャーネ族と戦い、支配下に組み入れて黒貂の皮1枚を税として納めるようにさせました。また同年にはホルヴァチ族を征服しています。884年にハザール汗国支配下のセヴェリャーネ族に遠征して勝利し、彼らの税を軽くして支配下に入れました。885年には同様にハザールの支配を受けていたラジミチ族に使者を送って、キエフの支配を受け入れさせます。このときの納税はハザール汗国と同じでした。オレーグがキエフ市にいた頃である898年に、マジャール族がウゴリスコエ山経由でキエフの近くを通過するという事件がありました。903年、成年になったイーゴリは、すでに自ら統治を行えるようにはなっていたものの、オレーグが実質的にその統治を代行しました。この年にイーゴリにオリガを娶らせました。
907年には、第2次コンスタンティノープル包囲とかオレーグ公のコンスタンティノープル遠征と呼ばれている遠征を行ないました(この遠征が実際にあったどうか不明な点もあります)。この遠征は、イーゴリをキエフに残して出発し、支配下の諸部族を連れて、騎兵と2000隻の船団でコンスタンティノープルに至りました。ビザンツ側は金角湾を封鎖して籠城したので、オレーグは上陸して戦いました。さらに陸揚げした船に車輪と帆をつけてそれで街へ進んだという話も『ロシア原初年代記』には描かれています。これを恐れたビザンツ側は和平を求め、オレーグは自分の兵士にそれぞれ12グリヴナを求め、オレーグは部下のカルル、ファルロフ、ヴェルムド、ルラフ、ステミドを使者として、レオン6世とアレクサンドロス3世の両共治帝と交渉させました。ビザンツと通商条約を結ぶことで、旅費や滞在費を負担してもらい、そのかわりに帝国内での暴挙の禁止や、コンスタンティノープルでの滞在のきまりを取り決めました。この条約の調印においては、双方は自分の信仰に基づいて誓約したことが『ロシア原初年代記』に記されています。911年に使者を送り、9月に条約を正式に批准しました。
912年の秋に、オレーグは馬の頭蓋骨を踏んだ時に出てきた蛇に咬まれ、それによって病気になって死亡しました。これは五年前に妖術師から「馬によって死ぬ」と予見され、すでに死亡していたその時の馬の死体を確認するために、うち捨てられていたその馬の骨を見にいって、まさに予見通りに死亡したのです。しかし、この話は似た話が北欧のフォークロアにあるので、伝説だと見たほうがいいかもしれません。
『ロシア原初年代記』によると、彼はシチェコヴィツァ山に埋葬されたとされますが、伝説では北方へと帰り、墓はラドガに造られたといいます。
彼の統治が行われていた時代である909年に、16艘のルーシ船団がカスピ海上のアベスグン島にやってきて、停泊していた商船団を壊滅させたらしいです。さらに、910年にはサーリ市(サリ市)を占領したようですが、これらに商船団の活動に関して、オレーグは関係あったのかどうかは不明です。
『ロシア原初年代記』におけるオレーグに関する記述は次の通りです。P12(黒いウグリがキエフ市近くを通過)、17(各公たちの治世の年数)、22(委任)、23(「3章・オレグの治世」)、29(イーゴリに妻を娶らせる)、30(コンスタンティノープル遠征)、40(条約締結後使者から報告を受ける)、41(愛馬の話)、42(死亡)、45(イーゴリの治世のはじまり)、336(注)、など。

(参考文献・『ロシアを知る事典』P114、『ロシア・ソ連を知る事典』P95、『ハザール謎の帝国』P125、『岩波西洋人名辞典 増補版』P313、『世界歴史大系ロシア史1』P51〜、『ロシア原初年代記』P22〜、『角川世界史辞典』P168、)
(05/02/24作成、05/03/13修正、07/07/28追加、)
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by xwablog | 2007-07-28 19:01 | 用語辞典
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