デジタル・クワルナフ
  管理人・馬頭(xwablog)。トップページのアドレスはhttp://www.toride.com/~digxwa/
トップ
エキサイト翻訳は安直に使え。それだけ使える、ということ。マリュータ・スクラートフ
今日も時間無いので、カンタンに。
でも、いっつもニュースばかりというのもあれなので、こんなネタ。

今、同人誌の作業で時間無いわけですが、作ってる『イヴァン雷帝関連人名事典』は分からない人ばかりで大変です。
で、困った時はネットで調べてしまうわけですが、中には英語のサイトもあるわけです。英語は中学生レベル以下でしかなく、まったく喋れないというのに。
でも、最近は便利な世の中になったもので、Exciteの「エキサイト翻訳」というものがあります。

これが非常に使い勝手がいいです。だいたい人名のスペルとかで探すと英語サイトが出てくるわけですが、これをそのままコピペで翻訳。すると、あっという間に大体のことを訳してくれます。
まあ、かなり適正じゃない訳され方もされますが、それでも大枠がわかるし、文意を読み取ってなんとなくわかるようになります。

自分みたいに確認したりするための情報が欲しいだけの人にとって、別にまったく完全な日本語にする必要はないわけで、充分役にたってくれるわけです。

事典用にまだ書いてない人が、あと100人くらいいるんですが、頑張って残りも書き上げたいと思います。
あと一週間以内になんとかしないと・・・・。



--------------・例(Wikのマリュータ・スクラートフの記事の場合)・---------------------


Malyuta Skuratov

(Malyutaスクラートフ)


Grigory Luk'yanovich Skuratov-Belsky, better known as Malyuta Skuratov was one of the most odious leaders of the Oprichnina during the reign of Ivan the Terrible.
(Григорий Лукьянович Скуратов-Бельский, Малюта Скуратов in Russian) (? - January 1, 1573)

(Grigory Luk'yanovichスクラートフ-Belsky、Malyutaスクラートフとして、よりよく知られるのは、イワンTerribleの治世の間のOprichninaの最も憎らしいリーダーのひとりでした。
(Григорий Лукьянович Скуратов-Бельский, Малюта Скуратов in Russian) (--1573年1月1日))


Malyuta Skuratov rose to prominence in 1569 by taking part in the trial and execution of Vladimir of Staritsa, Ivan IV's only cousin and a possible claimant to the throne. In December 1569, Malyuta Skuratov strangled a former Metropolitan of Moscow, Philip II, by the order of Ivan the Terrible, for his criticism of the Oprichnina.

(Malyutaスクラートフは、1569年に王座にStaritsaのウラジミール、イワンIVの唯一のいとこ、および可能な主張者のトライアルと実行に参加することによって、有名になりました。 1569年12月に、Malyutaスクラートフはモスクワの元Metropolitanを絞め殺しました、フィリップII、イワンTerribleの注文で、彼のOprichninaの批評のために。)

In January of 1570, Skuratov led a punitive expedition against Novgorod, killing thousands of its citizens on suspicion of treason. In 1571, Skuratov was put in charge of the investigation into the causes of the Russian army's defeat by the army of the Crimean Khan Devlet I Giray.

(1570年1月に、スクラートフはノブゴロドに対して討伐を導いて、反逆罪の容疑で何千人もの市民を殺しました。 1571年に、スクラートフはDevletカーンのクリミアのI Girayの軍隊によってロシアの軍隊の敗北の原因に調査を担当されました。)


Malyuta Skuratov was killed in one of the battles of the Livonian War in 1573. He lies buried near the grave of his father in the Joseph-Volokolamsk Monastery.

(Malyutaスクラートフは1573年にLivonian戦争の戦いの1つで殺されました。 彼はジョゼフ-Volokolamsk Monasteryの彼の父の墓の近くに埋まった状態で横たわります。)


One of Skuratov's daughters married Boris Godunov. His other daughter, who had poisoned Mikhail Skopin-Shuisky, was married to Prince Dmitry Ivanovich Skopin-Shuisky.

(スクラートフの娘のひとりはボリスゴドゥノフと結婚しました。 彼の他の娘(ミハイールスコピン-Shuiskyを毒殺した)はドミトリーIvanovich Shuiskyスコピン-王子と結婚しました。)


------------------------------------------------------------------------------------------------


元の文は、一部根本的な修正はしてありますが、訳の方はまったく手をつけてないです。それでも大体わかるというわけです。

あー、でもやっぱりちゃんと読めたりしたらもっと面白いんだろうな~。
無能には無能なりの成果、というわけか。


参照サイト
エキサイト翻訳
http://www.excite.co.jp/world/english/

関連記事
物語性のある魅力的なイラストで知られた歴史&FT系イラストの大作家アンガス・マックブライド氏が死去
http://xwablog.exblog.jp/9158568
同名の本は何か副題をつけるようにして欲しい。『イヴァン雷帝』トロワイヤとスクルィンニコフ
http://xwablog.exblog.jp/7751504



この記事へのコメント

>彼の他の娘

なんと・・・ボリスの妻と、スコピン・シュイスキーを毒殺したと噂された女性は、姉妹だったのですか。
・・・山川のロシア史によると「ツァーリ、シュイスキーの義姉で(ミハイル)スコピンの代母でもあったエカチェリーナ」と書かれていますが、なんと彼女はマリュータの娘だったとは。
Posted by 大鴉 at 2006年12月05日 22:35

ちなみにここらへんを元にして書いたスクラートフの記事はこんな感じです。

●スクラートフ=ベリスキー(マリュータ・スクラートフ=ベリスキー。グリゴリー・ルシアノヴィチ・スクラートフ=ベリスキー)
オプリーチニナ長官。イヴァン4世の側近のひとり。オプリーチニナに入隊後、1568年の主馬頭チェーリャドニンの領地への襲撃に功績があり、頭角を現します。オプリーチニナ裁判官としてスタリツァ公ウラジーミルのもとを訪れ、イヴァン4世の命令で彼とその家族を自死させます。イヴァン4世に自分の親戚であるマルファ・ソバーキナを嫁がせ、さらに自分の3人の娘を、イヴァン・ミハイロヴィチ・グリンスキー、ボリス・ゴドゥノフ、ドミトリー・イヴァノヴィチ・シュイスキーという非常に有力な貴族たちに嫁がせることになります。彼はイヴァン4世やオプリーチニナの制度を批判したことで修道院の牢屋に投獄されていた元府主教フィリップを、1569年12月にイヴァン4世の命令によって絞め殺しました。1570年1月、ノヴゴロドに対する懲罰軍を指揮をし、市民数千人(2000~3000人)を殺害しました。このノヴゴロド事件における功績によって貴族会議の下級メンバーに入ることが許され、またオプリーチニナ検事局の検事長となって、オプリーチニナ創設期からの旧指導部を排除して権力を握っていきます。1571年に彼は侵入してきたデヴレート・ギレイ率いるクリミア汗国軍との戦いでは、敗北の原因を調査しました。1573年、リヴォニア戦争にも参加しましたが、エストニアでの進軍中の小競り合いで戦死。イヴァン4世は、忠実な家臣で友人でもあるスクラートフを殺されたことから、報復として多くのドイツ人とスウェーデン人の捕虜を焼き殺しました。彼の死体はヴォロコラムスクの父親の墓の隣に埋葬されました。イヴァン4世の晩年に成立した摂政会議のメンバーである武器庫長官ベリスキーは彼の甥。
(参考文献・『イヴァン雷帝』(成文社)P176、197、212、223、224、234、237、241、251~253、255、256、282、309~ 311、349、375、377、『イヴァン雷帝』(中公文庫)P126、153、156、158、176、178、195、214、)

なんか、自分の身内をいろんな人と結婚させてますね。
しかし、山川のロシア史のそんな記事は見逃してました。エカチェリーナがスコピンの代母だったとは知らなかったです。
Posted by 管理人・馬頭 at 2006年12月06日 11:30

>スクラートフ=ベリスキー

なんか、いつも「マリュータ・スクラートフ」と名乗っているような勝手なイメージがあったのですが、そういえばこの人が「ベリスキー」なんですよね・・・。映画「イワン雷帝」でも、「マリュータ・スクラートフ」とだけ訳されていた(字幕)ような・・・本当は「ベリスキー」って言っていたんでしょうか。

しかしこの人、もともとは何者だったんでしょうね?
Posted by 大鴉 at 2006年12月06日 17:04

>マリュータ・スクラートフ
自分もどう名前を並べたらいいのかよく分かんなくて、しょうがなくこのマリュータについては「スクラートフ=ベリスキー」にしました。
「マリュータ」は「ちび助」とかそんな感じの意味だったはず。これがどういう風に使われ、姓がどんな感じに使われたのかとかは不明。ロシアの人名はよくわかりません~

>もともと
オプリーチニナ入隊前に何してたとかは分かりませんでした。とりあえず貴族の子息ではあるようです。

あ、ちなみにマリュータ・スクラートフの娘たちについての情報は、一部矛盾する情報があったので、あんまり信用のおけないかもしれません。
Posted by 管理人・馬頭 at 2006年12月07日 05:58

マリュータ・スクラートフについて、ちょっと調べてみました。

まず、この人の本来の名字はベリスキー。スクラートフというのは、祖父ジノーヴィー・ベリスキーのあだ名であった「スクラート」に由来する第2の名字のようなもの。そしてマリュータは本人のあだ名。これに名前と父称をつけると、グリゴーリー・ルキヤノヴィチ・マリュータ・スクラートフ・ベリスキーという非常に長いフルネームとなってしまいます。
ちなみに「スクラート」は痩せた人、「マリュータ」は小柄な人を呼んだあだ名のようです。

当時のロシアでは、まだ名字の制度が確立しておらず、有名な当主の名前やあだ名によって数世代で簡単に名字が変わる場合が多かったようです。例えばロマノフ家やシェレメーチェフ家などがそうですね。一方、シュイスキー家に代表されるような格式の高い名門貴族は、由緒正しい姓を大事に守り続けているので、少なくとも数世代でコロコロ変化することはなかったようです。
そこでスクラートフ・ベリスキー家ですが、この一族はヴァシーリー1世の時代にポーランドからやって来てモスクワに使えたスタニスラフ・ベリスキーなる人物を祖としており、グリゴーリー・マリュータでやっと5代目。家柄としてはそれほど高いものではなく、だからこそ「痩せた人」というようなあだ名が第2の家名となったのでしょう。もしもグリゴーリー・マリュータの子孫が繁栄したとして、その場合は彼のあだ名から新たな家名「マリューチン」が起こった可能性も高いのではないかと思います。
ちなみに、ベリスキーという有名な家系はスクラートフ・ベリスキー家以外にも2つあり、1つはリューリク家、もう1つはリトアニアのゲディミナス家につらなる名門中の名門で、とりわけイヴァン3世から4世時代にかけてのモスクワで重きをなすのはゲディミナス系の方です。スクラートフ・ベリスキー家は、これらの名門とは何の関わりもない単なる同姓のようです。
これは僕の推測ですが、グリゴーリー・マリュータが「ベリスキー」よりは「スクラートフ」の方で呼ばれることが多いのも、これら「名門ベリスキー」と間違われやすいからではないでしょうか。
Posted by 奥野 at 2006年12月08日 01:23

>名前
おお、そうだったのですか~。
「ゴルバーティ=シュイスキー」の話の時もそうでしたが、そこらへんの由来の話は面白いですね~。もっと時間あれば同人誌にのせれたのに勿体ない。
今度の本はあんまり売れないと思うので、どうせ再版しないでしょうし、HPにのっける時に追記してみたいです。

しかし、ロシアはポーランド・リトアニアからの亡命者が多いですね。逆に亡命されちゃう場合も多いですが。調べてる内に何人もいました。
やはり、戦争ばっかりしてても、交流はちゃんとやってたということでしょうか?(貴族同士の婚姻関係もあるみたいだし)。あと言語的な面での敷居の低さとか?
Posted by 管理人・馬頭 at 2006年12月08日 02:17

おお、ありがとうございます>ベリスキー解説

うっかり、間違えそうになるところでした。「名門ベリスキー」となにか関係あるのかと・・・。

>ポーランド・リトアニアからの亡命者

これはやはり、ポーランド(王室)の「カトリック傾倒」に由来するんでは。正教側の貴族達は、肩身が狭かったようですから。(フシーテン貴族なんてのもいましたが・・・)
Posted by 大鴉 at 2006年12月09日 00:45

ルーシとポーランド・リトアニアとの「垣根の低さ」は、大鴉さんも指摘されているように、宗教(と言うよりは宗派)上の共通性が大きかったのではないかと思います。公一族の通婚を見ても、モンゴル襲来後のルーシ諸公は(キエフ・ルーシとは違って)カトリック世界との君主とは一切婚姻関係を結ぼうとしなかったのに対し、例外的にリトアニア大公家の娘だけは何人も妻として迎え入れています。リトアニアまでは「正教圏」と見なされていたのでしょうか。
もう1つ興味深いのは、キエフ・ルーシにおいては「公(クニャーシ)」の称号がリューリク一門に独占されていたのですが、後にリトアニアとの関係が深くなると、ゲディミナスの子孫たちも公と呼ばれていること。それだけステータスが高い一族だと見られていたわけです。

もしもリトアニア大公国がカトリックではなく正教に改宗していたら、その時にはキエフ・ルーシの後継者となったのはモスクワではなくリトアニアだった可能性がある…というのは鳥山成人先生が述べられていたところですが、実際にそうだったのかもしれません。
Posted by 奥野 at 2006年12月09日 03:36

>宗教
そうか~。そういや、ポーランド・リトアニアの国内の正教徒の問題とかありましたね。
でも、ロシアでルーマニアやセルビアからの亡命者、みたいな話は聞かないですね。やっぱりオスマン朝の支配が、「亡命する必要のない程度」のものでしかなかったということかも。

>キエフ・ルーシの継承者
キエフ市も獲得したし、あのまま拡大を続けていって、(対タタールで協調して)ロシア側と「合同」というようなことになっても面白かったかもしれませんね。

>婚姻と正教
そういえば、イヴァン・マラドイの妻エレーナがモラヴィア公女でしたね。

あ、今気付いたんですが、同人誌に「イヴァン・マラドイ」のことを全部「イヴァン・マドライ」って書いてしまいました。もう誤植発見か。
Posted by 管理人・馬頭 at 2006年12月09日 23:43

中世ロシアとバルカン方面ですが、聖職者レベルだとかなりの交流があったようですね。例えばセルギー・ラドネシスキーの伝記を書いたパホーミー・セルプなる修道士がいますが、この「セルプ」というのは「セルビア人」を意味しており、彼の出自を物語っています。また、ドミトリー・ドンスコイの後見人として知られたアレクシーの後をついでモスクワ府主教になったキプリヤンは、元々はブルガリアの貴族の出身です。
さらにビザンツ帝国滅亡の前後になると、多くの聖職者や文人がロシアに流れ込み、文化面でも大きな影響を与えます。14世紀から15世紀になると、ロシア語の中には南スラヴ諸語を起源とする新しい語彙が大幅に増加しますが、これに関してバルカンからロシアに移住した人々が重要な役割りを果たしたことは間違いないでしょう。
全体として「閉鎖的」という印象の強いモスクワ・ルーシも、調べてみると実は意外なほど外部世界とのつながりが強いようです。

一方、確かに貴族などの亡命者は目立ちませんが、それは距離の遠さという物理的な問題があったからではないかと思います。逆にポーランド・リトアニアの場合、モスクワ大公国とは直接国境を接していたから、それだけ逃げ込みやすかったわけで。
例えば、イヴァン雷帝の母エレーナ・グリンスカヤを出したグリンスキー家ですが、この一族が何故ロシアに亡命してきたかというと、エレーナの叔父にあたるミハイル・グリンスキーがポーランドのジグムント1世老王に対する大反乱を起こしたからなのです。このミハイル・グリンスキーはなかなか面白い、というかとんでもない人で、ポーランドから広大な土地を掠め取って事実上の独立を試みたらしい。しかし夢破れてモスクワに遁走、ヴァシーリー3世の下で対ポーランド戦を主導するという、乱世の梟雄的な人物なのでした。
で、こんな大それたことをやってしくじっても、国境を越えればもう身の安全を保障できたわけで、これも物理的な「近さ」のなせるわざかと思います。遠く離れたバルカンの貴族にはできない芸当でしょう。というか、ポーランド・リトアニアとロシアとの関係が特殊すぎたのかもしれませんが。
Posted by 奥野 at 2006年12月10日 04:03

>距離
ロシアから亡命者が南へ逃げるとなると、危険なタタールの勢力地を通ることにもなるでしょうし、距離が長ければ、追手につかまる可能性も高くなる、ということもあるでしょうね。ヴァシーリー・グリンスキーもリトアニアに逃亡したけど、国境を越える前に捕まってますし。

>グリンスキー家
この家の話は面白いですよね~。みんなしていろいろやってますし。特にこのミハイルはすごい活躍してて、かっこいいです。同人誌の中では、リトアニア王位を狙ってた、とか書いちゃいましたが、その大反乱は、もしかしてポーランドとリトアニアの分離独立を目指すものだったということでしょうか?
Posted by 管理人・馬頭 at 2006年12月10日 16:41

>ポーランドとリトアニア

このあたり、ポーランド、リトワニアそれぞれの記述が微妙に異なっていて、どれが事実なのかいまいちわかりません。
ポーランドは「リトワニアとの合同は運命」とか言っているのですが、リトワニアは「合同してやった」という感じ。一部のポーランド関係の本では「ポーランドとリトワニア貴族の相互移住現象があった」みたいなことが書かれています。おそらくは、リトワニアで騎士団によってカトリックになった貴族と、ポーランドの正教貴族が、合同後に移住しあったのだと思いますが。

あと、気になるのがバルカン方面への「ハンガリー王国」の野望ですね。一時は、ビザンツ帝国が「ローマの後継者」にしようとまで考えた国ですが、カトリック国だったこともあってダメだったようですが。
もともとポーランドの「カトリック化」も、ヤギェヴォの妻でハンガリーの姫ヤドヴィガから本格化したようですし、ポーランド、チェコ(?)、ハンガリー枢軸という構想でもあったのでしょうか。しかし、そのハンガリーは昔からバルカン半島の支配権を狙っていたわけで、キエフ方面ともつながりが浅くない。

ハンガリー王国が内乱に明け暮れず、その強力な軍事力を外に向けていたら、東欧とロシアとバルカン半島の勢力図は大きく変化していたかもしれません・・・。(いや、西欧もですが)
Posted by 大鴉 at 2006年12月10日 16:59

僕が読んだものには、ミハイル・グリンスキーが王位を窺っていたかどうかまでは書いていませんでした。ただ、キエフを手中に収めようと画策していたらしいので、この辺りに何か鍵があるのかもしれません。おそらく今となっては永遠に分からないことなのでしょうけれども。
それからまた、ミハイル・グリンスキーはヴァシーリー3世に仕えた後も謀反を企んで投獄されており、まさにその時期に姪のエレーナ・グリンスカヤが大公の再婚相手となったため許されて出獄されたとのことで、これもまた興味深い点です。ひょっとすると、ヴァシーリーはこの危険人物を親族にして味方に取り込む必要を感じ、それでエレーナを妻に選んだ可能性もあるのではないかと。ただ単にエレーナの美貌に惹かれて、というのはどうも話が上手くできすぎているような気がします。トロワイヤもこの辺りを膨らませばもっと面白いストーリーが作れたかもしれないのに…って、そんなことをしてたら分量が途方もなく増えてしまいそうですけどね。
Posted by 奥野 at 2006年12月11日 05:33

>リトアニア・ポーランド
ポーランド貴族とリトアニア貴族の両方にそれぞれ合同によって受ける恩恵があったということがどっかに書いてありましたね。
まあ、主張が正反対になるのはやっぱり自分たちの立場を補強したいでしょうし仕方ないですね。

>リトアニア独立
より正教徒の多い地域を中心としての独立という感じの方向性ですね。それはそれで、新たな「キエフ公国」の誕生という展開となって面白いそう。
ホントにそこらへんの話だけでも惜しい。

>出獄
そこまでは考えつきませんでした。ヴァシーリー側からの取り込みと考えると出獄と結婚がうまく繋がりますし。
Posted by 管理人・馬頭 at 2006年12月12日 00:56
[PR]
by xwablog | 2006-11-13 00:29 | 日記
<< ブラッドリーとはらさん死去。根... ヴァイキング船の復活とラムズフ... >>